7月19日

 
 
あれは1年前の7月19日のこと。
 
その日は土曜日で
午前中にサッカーの練習がある予定だった。
 
そして、
午前練が終わってから実家へ帰省するつもりであった…
 
 
 
朝の5時半頃だったか、
着信音で目を覚ました。
 
寝ぼけまなこで電話に出ると母親からだった。
 
どうしたんやろ、こんな朝早くから
 
と一瞬思ったが、
母の慌てふためいた雰囲気で察した。
 
お父さんが危篤状態になった。
とりあえずすぐに帰ってきてほしい。
 
 
驚く言葉も出なかった。
 
とにかく急いで用意をした。
 
スマホを見ると
4時頃から何件もの着信が入っていた。
 
普段なら物音一つで目を覚ます自分が
着信音に全く気づかなかったのにも驚いた。
 
 
 
元々帰省する予定で荷物はまとめていたので
そこまで時間はかからずに出発した。
 
朝早かったので、
出発して少し経ってから
チームのオーナーや監督に電話をした。
 
とにかく気を確かにもって、
急ぐ気持ちは分かるけど安全運転で🙇‍♂️
 
と言葉をかけてくれた。
 
そして、
こっちのことは気にしなくていいから
家族と一緒に過ごしてきてください
とも。
 
 
 
当然ながらこんな形の帰省になるとは思っていなかった。
 
父が入院していたのは知っていた。
 
でも、
18年前に脳腫瘍を患い手術をして以降、
ちょくちょく入院、手術もしていたから
今回もいつものようにまた元気になると思っていた。
 
危篤?
あのおれのお父さんが?
 
そんなわけないと思いながら車を走らせた。
 
運転に支障が出そうだったので
あまり考えすぎないようにしようとした。
 
それでも、
最悪のことが頭をよぎる。
 
よぎる度に涙が出た。
 
しかし、
そんな想像をかき消すように、
 
絶対また元気になるに決まってる
 
と言い聞かせていた。
 
 
2時間走って兵庫医科大学病院(兵庫医大)に着いた。
 
父がずっとお世話になっている病院。
 
記憶が少し曖昧だが、
確かちょうど大阪から来た姉と同時に着いたと思う。
 
母が駐車場まで迎えに来てくれたっけか。
 
家族と会って
そこで何を話したかなんて覚えていない。
 
とにかく父のいる集中治療室(ICU)に向かった。
 
きっと、
ICUには生涯入ることのない人もいるだろう。
 
そこには、
元気そうな人なんて一人もいなかった。
 
 
そしてそこに父がいた。
 
たくさんの管に繋がれ、
静かに目を閉じていた。
 
あの屈強な父とは思えないほど
ガリガリに痩せ細った姿。
 
父の側に、
父の弟であるおっちゃんがいた。
 
涙を流していた。
 
おっちゃんは静かに言った。
 
淳さん(父)はもう良くても植物状態。
目を覚ますことはもうないって。
 
それを聞いた瞬間に、
ぼくからも姉からも涙が溢れ出た。
 
ぼくは何も言葉が出せなかった。
 
あまりに早すぎる。
あまりに急すぎる。
 
管を外せば父はもう逝ってしまう。
 
今はただ機械に生かされている状態。
 
そんなこと簡単に受け入れられるはずがない。
 
夢であってほしいと何度も願った。
 
しかし、
そこに眠っているのは紛れもなく父だ。
 
 
頭が混乱したままで、
ドクターからの話があった。
 
父の今の状態
このようになった経緯
これからのこと
 
この日にどこまで話したかは定かではない。
 
ドクターに一つ落ち着いた口調で聞いたこと。
 
それは、
 
本当にもう父が目を覚ますことはないんですか?
 
ということ。
 
ドクターは苦しそうな表情で、
頷きながらそうであると話した。
 
父はもう目を覚まさない。
 
それに、
いつ心の臓が止まるかも分からない。
 
脳幹が損傷していたからだ。
 
脳内での出血もあった。
 
そして話があった。
 
脳死判定となった場合に、
「臓器提供」をするかどうか。
 
家族で、
たぶんお父さんのことやからしてへんやろな
と言いながら
父の所有物をあさったが
どこにもそんな意思表示をした形跡はない。
 
父の意思は分からない。
 
けれどぼくは家族やドクターの前で言った。
 
何十年も教師を続けてきて
ずっと誰かのために生きてきた父やから
最期も誰かのために生きようとすると思う
 
と。
 
姉も同意見だった。
母やおっちゃんも納得をした。
 
その判断が正しかったか分からない。
 
臓器提供を決断したことを
一生後悔する可能性もあると思っていた。
 
それでもそういう意思で一致した。
 
後から分かったのは、
入院時に意思表示について聞いていたらしく
父は、
 
「使えるもんは使ってください👍️」
 
と笑顔で答えていたようだった。
 
結局臓器提供には至らなかったが、
その父の答えでどれだけ心が楽になったか。
 
父らしい回答だったと心から思う。
 
 
 
病院を出て、実家に帰った。
 
どんな雰囲気だっただろうか。
 
どんな会話をしただろうか。
 
冷凍庫の中にあったもの。
 
それは、
父の日 兼 誕生日プレゼントで
ぼくから送った高級うなぎだった。
 
うなぎ食ったらパワーでるから
退院したら母と二人で食べてほしい
 
と伝えていた。
 
 
もう父が食べることはない。
 
もう一緒にご飯を食べることもない。
 
もうお父さんの車で出かけることもない。
 
あの姿、あの表情…
 
声を聞くことすらもうない。
 
まだお父さんは生きていて、
一生懸命、闘っている。
 
なのに、
もうあの日常は戻ってこない。
 
 
その現実を受け入れようと必死だった。
 
長男として、
母と姉が崩れないように
自分がしっかりしようと決めた。
 
だけど、
一人になったお風呂の中で、
ついに崩れてしまった。
 
我慢しようと思ってもできなかった。
 
吹っ切れたように泣いた。
 
もう泣き崩れることがないように
一人のうちに涙をありったけ流した。
 
不思議なものだ。
 
笑ってる回数よりも、
怒ったり、すねたり、真顔だった方が多いはずなのに
 
頭に浮かぶのは、
笑ってる父の顔だった。
 
 
 
 
今日か明日かと言われた父の命は、
なんと1ヶ月弱も続いたのだ。
 
さすがは我が父。鉄人だ。
 
そこからの1ヶ月、
父は数々の伝説を残すこととなる。
 
最期まで闘った父のエピソードは
またどこかで記すことになるだろう。
 
 
結局、
あのお風呂での涙以降、
大粒の涙を流すことは葬儀までなかった。
 
2025年7月19日
 
あれほど現実から目を逸らしたかった日は他にない。
 
決して忘れることのない日となった。
 
  
仲良しで、偉大だった父。
 
今頃は天国で楽しみながら、
見守ってくれていることだろう。
 
父との思い出をずっと大事にしながら、
ぼくはぼくらしく人生を精一杯過ごしていこうと思う。
 
 
 
2026.7.19
#6 竹川 恭平