『竹川恭平物語』第三章第五話
第五話『人生初の大怪我』
中学3年生の5月の出来事。
ぼくたちの中学サッカーライフも
残すところ2大会となっていた。
最後の大会の前に、
クラブチームだけの大会であるクラブユースという闘いに挑んでいた。
4チームのリーグ戦で順位を決め、
その後県のトーナメントに進んでいく流れ。
しかし、
ぼくたち宝塚Jr.FCは、
最初の2戦で敗れ、リーグ敗退が決まっていた。
その状況下で、
最後の試合に挑もうとしていた…
相手は同格か少し格上の相手。
前半0-0の拮抗した状況。
あるカウンターシーンで、
SBだった自分は
FWに楔のパスを当てて、
サイドを駆け上がり裏へのパスをもらった。
相手のCBのカバーが来ているのが見えた。
そして、
その選手がスライディングをしてくる。
それは分かっていたが、
先に自分がチョンと触れれば
もうGKと1対1の場面だったので
スライディングを避けずに賭けに出た。
しかし、
相手の方が少し速かった。
相手はスライディングでボールをカット。
そこに0.、何秒か遅れていったために
そのスライディングに思いっきり巻き込まれた。
身体が宙を舞ったのを今でも覚えている。
何秒も経っているかのような感覚だった。
気が付いた時には、
肩のあたりに激痛が走り、うずくまっていた。
ファウルは無かったものの、
審判は時間を止めて駆け寄ってくる。
かなり痛かった。
でも、
絶対に退場なんてしたくなかったし、
アドレナリンが効いていたのか
プレーできると思いそのまま続行した。
ちゃんと走れていたような記憶はある。
しかし、
コーチや、
スタンドで見ている保護者たちは
「あれは絶対無理や」
と思っていたらしい。
痛めた左肩が下がり、
ものすごい姿勢になっていたという。
そしてその後のプレーでマイボールのスローインとなった。
当然SBなので投げようとする。
ボールをもって頭の上にあげようとするも肩が上がらない。
その瞬間にコーチが、
「恭平もういい、出ろ😰」
と指示をしてきた。
味方選手と交代し、
ピッチの外に出た瞬間、
激痛で立つことすらできなかった。
たまたま母が観に来てくれていたので、
病院へと直行した。
三木防災から宝塚の病院まで40分ほど。
車の中で、
どの体勢になっても痛い。
もう痛すぎて笑ってしまっていた。
病院に着いたものの、
日曜日で緊急の人が多くけっこう待たされた。
1,2時間ぐらい待っただろうか。
やっと診断。
お医者さんは、
経緯や症状などを聞いて、見て、
「これは鎖骨折れてるかもしれんねぇ」
と言った。
そして、
痛みで肩を丸め、
猫背のようになっていたぼくの肩を後ろから持ち
「一瞬痛いで」
と言って、
両手でぼくの両肩を外側に思いっきり開いた。
バキキキキッ
「いーーーーたーーーーーー!!!!!」
もしかしたら、
病院中に聞こえていたかもしれない。
っていうか、
今ので骨折れたんちゃうんか!
と思うぐらいの電撃か走ったような痛みだった。
「あかん、もう無理。しぬ。」
とその時は思っていた。
診断は終わり、痛み止めをもらって帰った。
その日は休日でレントゲン撮れなかったんだったか。
帰っている途中から、
「あれ、さっきより痛くない…?」
となった。
そう、
さっきお医者さんがやってくれた
バキキキキッのやつのおかげで
痛みが和らいだのだ。
その時診てくれたK先生は、
長い療養期間でぼくを支えてくれた恩人の一人だ。
後日、診断結果が出た。
左鎖骨の骨折だった。
しかも、
通常の骨折に加えて、
骨が飛び散る粉砕骨折と
骨が剥がれる剥離骨折も併発していた。
想像以上の重傷だった。
人生初の骨折。そして大怪我。
そして言われた、
最低全治6ヶ月
の絶望の言葉。
中学での最後の大会は、
8月、9月から始まる高円宮杯。
怪我をしたのが5月だったので、
関西大会まで進んだとしても間に合わない状況だった。
あの瞬間のショック、絶望はものすごかった。
しかし、
なぜか前向きになった。
きっとコーチからの言葉のおかげかもしれない。
「怪我でプレーできない期間は苦しいだろう。でも決して腐るな。この期間を自分の成長に変え、『あの怪我があったからおれはここまで成長できた』と未来で言えるように闘え。」
という言葉。
その後手術が行われ、
鎖骨にワイヤーぶっ刺して固定をした。
初めての入院に興奮し、
自由な時間やー!とわくわくしてましたが
暇すぎてしにそうでしたね。笑
一泊二日で良かったです…
手術も無事終わり、あとは安静にするのみ。
上半身を激しく動かしたり、
鎖骨部分が水に浸かることもNG。
6月にいった沖縄への修学旅行では、
ぼくだけ膝下までしか海へ入れなかったのも
今ではある意味思い出😅
自転車のハンドルも握れないので、
チームの練習にも行くことはできなかった。
しかし、
その時間を無駄にはしなかった。
ジムに通うようになり、
下半身を中心にトレーニングを続けた。
両親がジムまで送れない時は、
90分かけて歩いていくこともあった。
痛みがましになってからは、
軽いジョギングや鎖骨に響かないぐらいの上半身、体幹を始めたりもした。
とにかく、
今自分がやれることに精一杯励んだ。
病院へ診断に行く度にこう聞いていたのを覚えている。
「K先生、いつ復帰できますか??」
と。
そして、
「今の状態、どこまでやっていいですか?」
と。
きっと、
すべてをダメという先生だったらぼくは暴れていたかもしれない。
しかし、
K先生はものすごく穏やかな人で、
「うーん、〇〇ぐらいまではやっていいかなぁ」
となだめるような対応をしてくれたので、
まぁ先生が言うなら
これ以上はやめとこかなぁとなっていた。
大怪我…
しかし、
侍の身体は常人の何倍ものスピードで怪我を治癒していった。
全治6ヶ月
その期間を大幅に短縮することができた。
なんと、
2ヶ月半で完全復帰を果たしたのである。
これにはK先生含め、
あるゆる人が驚きを隠せずにいた。
残りの半月ぐらいで体力面も戻すトレーニングをしていたので、
復帰後もなんとか練習、試合に食らいついていけた。
あの怪我の期間、
とにかく復帰に向けて、
そして復帰した後を見据えて、
やれることを100%でやっていたと思う。
復帰したのが確か、
夏の合宿の時だったか。
いきなり合宿だったのは大変だった。
あ、言うまでもなく、
サッカー部の合宿とはひたすら追い込む、走りまくる、鍛えまくるものである。
ヒーヒー言いながらも、
みんなに復帰を祝ってもらったり、
煽りを受けてがんばることができた。
そうして、
復帰後少ししてスタメンも取り戻し、
完全復帰となったわけである。
あの怪我をした時は本当に絶望だった。
全治6ヶ月、
もう最後の大会には間に合わないと言われた時…
頭は真っ白になった。
しかしコーチの言葉で、
この離脱期間を無駄にしないことを決意した。
途中からは、
絶対復帰したんねん!
という気持ちでリハビリに取り組んだ。
正直、少し無茶はしていたかもしれない。
今も昔も変わらんな。
けれど、
やれること全部やって手に入れたのが、
超短縮での復帰。
がんばって良かった。
K先生のおかげでもある。
感謝しかない。
そして、
怪我をしたから気付けたこともたくさんあった。
外から見るみんなの姿。
ベンチでコーチがどんなことをぼやいているのか。
普段できないトレーニングにも取り組めた。
今のフィジカルがあるのは、
あの期間でトレーニングし続けたことも大きく作用している。
怪我はしない方がいい。
それは当然だ。
しかし、
怪我は付き物でもある。
だからこそ、
怪我しないためにできる限り万全の準備やケアをすることが大事だと分かった。
そして、
もし万が一怪我をしてしまったら、
その離脱期間を復帰後の糧にできるように励むこと。
そうした
アスリートにとって大事なことを学ぶことができた大怪我だったのである。
コーチは言った。
恭平は、
怪我という負の遺産をプラスに変えることができた。
そう、
過去を変えることができたのだ。
と。
良いことも悪いことも、
すべて未来に繋がっているのだ。
第三章
第五話『人生初の大怪我』完
次回、
第六話『将来の夢』
お楽しみに。
2025.11.1